海外博物館めぐり 4

ハンコック自然史博物館
(The Hancock Museum)

池谷 仙之 (静岡大学理学部)

発行:2002/03/10


ハンコック自然史博物館イギリス北東部Northumberlandの中心都市New-castle -upon-Tyne は,地名が示すようにTyne川の河口から約13km上流に位置し,イギリスを征服したWilliamT世の息子Robertが1080年にこの地に城を築いたことに由来する。ここはローマ時代からの交通の要地でもあり,古くから港として栄え,産業革命後は,工業都市として発展していった。現在,人口23万たらずの中都市であるが,新旧の建造物が調和的に建ち並んだ美しい街である。この小さな町に伝統的な博物館が7つもある。その中の一つが最も古い伝統を持つHancock自然史博物館である。

 Hancock自然史博物館は町の中心部,Newcastle大学の隣のやや小高い丘の上に古めかしく小ぢんまりと建っている。世界の有名な博物館のイメージからすれば,その規模はちっぽけな地方の一博物館にすぎない。その設立は"The Natural History Society of Northumberland, Durham and Newcastle-upon- Tyne"が正式に発足した1829年に遡ることができる。しかし,それ以前にも同博物館の前身として,キャプテンJames Cook (1728-1779) の大西洋諸島の民族資料をはじめ,多くの自然史資料を収集する活発な博物館活動と自然史研究が18世紀の中頃から続けられていた。

 Hancock博物館は1984年に開館しているが,Albany Hancock (1806-1873) とその弟John Hancock (1808 - 1890) の業績を記念して,1890年に現在に残る石造りの建物が建てられ,それ以来Hancock博物館と呼ばれるようになった。Albany Hancockは軟体動物,腕足類の研究で知られ,Darwinの蔓脚類の研究をも手伝ったことがある。またJohn Hancockは鳥類の研究家で,腕のよい剥製職人としても知られている。この兄弟は地元のNatural History Society(自然史協会)の最初からのメンバーであり,同会の育成に一生をささげた博物学者であった。

Hancock博物館はこの地方の自然史協会の活動の基盤となり,創立以来,Newcastle大学の援助を受けながら,定期的に欠けることなくTransactionsが出版され,また多くの研究業績が出版されている。これらの出版物中には,最初の100年間 (1929年まで) だけで,1目,1科,49属,218種の新しいタクサが提唱され、記載されている。これらの模式標本のすべてが今日まで大切に同館に保管されていることは言うまでもないことである。

 同博物館が所有する重要な標本のうち,筆者が気にとめた生物と古生物関係のものをいくつか挙げると,イギリスの苔類 (Duncan Collection),石炭紀の植物 (Hutton Collection),イギリスのヒドロ虫類と軟体動物 (Alder Collection),裸鰓類と被嚢類 (A. Hancock Collection),甲殻類(Brady Collection),二畳紀の無脊椎動物 (Howse Collection),石炭紀の魚類と両生類 (Atthey Collection),ジュラ紀の魚類 (Dinning Collection),化石脊椎動物 (Kirkby Collection),イギリスの鳥類 (J. Hancock Collection) と大変な数になる。これ以外にも沢山の有名な標本を抱えている。そして今日でもこれらの標本を研究するために,内外から著名な学者が大勢同館を訪れている。その来訪者名簿にはここ2,3年の間だけでも,筆者が関係する人たちの名前が十数名も記帳されていた。

G. S. Brady Hancock博物館が地域の人々の自然史への興味を引きつけ,自然への更なる探求心をかき立てていく過程で,大きな手助けをしていることは今も昔も変わっていない。館内の展示や催しには、最近の恐竜ブームにも心配りをしつつ,「イギリス北東部の動植物や地質に関する地域の自然をもっと理解しよう」という意気込みが随所に感じられた。そしてまた、このような地方の小さな博物館でありながら,同館は世界一のBritish Museum(大英博物館)と肩を並べている部門がある。それはChallenger Expedition (チャレンジャー号探検航海)(1872-1876) によって採集され,G. S. Brady (1880) によって研究された介形虫類の標本と,Bradyが生涯をかけて集めた世界中の介形虫標本が収蔵されているからである。

 筆者はBrady標本の検鏡のため、この博物館を1980年以来何度か訪ねている。昨年の1月にも、国際会議の打ち合わせでロンドンに滞在した折、東シナ海の介形虫をBradyのタイプ標本と比較するために、大英博とHancock 博に行く計画を立てた。ところが、LondonからNewcastleまでは汽車で半日がかりの距離のため、日程調整ができず、Newcastle行きを諦めざるを得なくなってしまった。

 しかし、一番のお目当ての標本はNewcastleにある。そこで、事前に大英博のJ. Whitaker博士に「その標本をロンドンで見られないか」とe-mailで相談したところ、すぐに「承知した」との連絡を受けた。半信半疑で大英博に行ったところ、そこにはHancock博が所蔵するCytheridea impressa Brady, 1896のまぎれもないタイプ標本(香港産)が顕微鏡下にセットされていた。最近では、世界の主要な博物館で、このような標本に関する貸し借りのサービスが普通に行われるようになったのはうれしいことである。翻って、日本の博物館はどうであろうか?

 ここでは、筆者が初めてHancock博を訪ねた時のある感動の一端を紹介することにしよう。それは先に紹介したBradyのコレクションを調べているとき、その中に「横浜港」と「三崎海岸」で採取された2枚のファウナル・スライドを見つけたことである。前者のスライドには "Yokohama, Japan 1874, Ostracoda" と表記され、裏面には "Brought up on the anchor, θMr. Kivsoff, Glasgow" と記入され、また後者のそれには "Sea sand from the coast of Misaki at the entrance of the Bay of Tokyo - Japan - , Collected by M. Yokoyama" と裏書きされていた。これらの端正に書かれた黒インキの英文字は恐らくBradyのペンによるものであろう。

Bradyが描いた日本のオストラコーダ Bradyは英国内の標本ばかりでなく、世界中の標本をあらゆる手段を使って集めていた。このことは同博物館に残されている彼の収集品からもうかがい知ることができる。当時、英国の商船は世界のあらゆる港に出入りしていたので、世界各地の沿岸や港内の底質試料を入手するのは比較的容易であったと思われる。想像するに、横浜港の標本もBradyがGlasgowから出港する商船の乗組員Mr. Kivsoff に試料を持ち帰るよう直接頼んだのかも知れない。頼まれたKivsoffは途中で立ち寄った港々で、停泊時に投錨した錨に付着してくる堆積物(泥の塊)を持ち帰り、Bradyに届けたに違いない。

 また、Bradyは世界中の博物学者から同類の標本を寄贈してもらっていたようである。三浦半島の三崎海岸の介形虫はどこの海岸の砂かは特定できないが、横山又次郎(1860-1942)が三崎付近の砂を送り、その砂から抽出されたものであることは確かである。横山又次郎は1882年に東京帝国大学理学部地質学科を卒業し、1886年にドイツへ留学し、 1889年に帰国、その年に同学科の古生物学の教授になっている。Bradyと横山又次郎との交友関係については知るよしもないが、恐らくBradyが請求して入手したか、横山又次郎が献上あるいは同定を依頼したものであろう。いずれにしても、このスライドには年号の記載がないので、それが何時のことかはわからないが、Challenger Report (1880) が出版された後のことと思われる。

 当時の日本では全く研究されていなかった介形虫類を、しかも日本産の介形虫類をこの時代にBradyが検鏡して、どのような種類がいるか、すでに知っていたことは驚きである。その上、これらの標本は、まるで昨日作製したかのような新鮮さで保存されていた。100年前に神奈川県下の標本が英国に渡り、それがいまも大切に保管され、後続の研究を立派に支えているのである。

オストラコーダの標本と保管キャビネット 同博物館は植物,昆虫,地質,哺乳類,鳥類の5部門から成り立っているが,専任のスタッフは館長以下,総勢10名である。筆者が同館を訪ねたとき,ティータイムに十数人の人たちが集まってきていたが,その人達はほとんどボランティアの大学生達であった。中にはここで学位論文を仕上げている大学院生もいたが,自然史の勉強をしながら標本整理やカタログ作りを手伝っていた。一人忙しく駆けずり廻りながら,学生達を指図していた館長と,この伝統あるHancock博物館が今もなおあらゆる試練に耐えながら逞しく活動している姿に,自然史に対するイギリス人の執拗な熱意を感じた。



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登録日:2002年3月19日