追悼文 貝のアマチュア研究家・寺田 徹の遺志を継いで 静岡県の自然史博物館に、寺田コレクションを遺したい |
発行:2000/12/05
寺田 朝子
医師から「とても危険な状態です。ここ一週間がやまでしょう」、そういわれて私たちは呆然とした。肺ガンの手術を受けてから2ヶ月。全治とまで行かなくとも、数年間の執行猶予はうけられたものと、本人も家族も信じていた矢先のことだった。病名は肺炎。手術をした後のいい方の肺が悪質な肺炎を起こしているという。へたをすると命取りになりかねない。私たちはあわてた。 入院するまで、時間を見つけてはコツコツと続けていた貝のデーターが、コンピュータのハードディスクの中に入力されていることを聞き出したのは私だった。長女は、即座に超高速の業務用印刷機を買ってきて、データーの打ち出しにかかった。A3の用紙いっぱいに記入された2,300種におよぶ「駿河湾の貝」の採集データーは、打ち出してみると紙数50ページにもおよぶ膨大なものだった。標本はこれらのデーターと対応する形で整理されているという。 しかし、残念ながら、私たちにはそのデーターを読解するだけの貝についての知識がなかった。すぐに思いついたのは、静岡県の自然史博物館設立の事前調査のために、「貝」の標本を見せて欲しいと電話をもらっていた静岡大学助教授の延原尊美さんだった。私は延原さんに、その調査をすぐに実施して欲しいと依頼の電話をかけた。 さっそく病院に駆けつけてくれた延原さんを囲んで、私たちはすばらしい時間を共有することができた。二人は貝の話で即座に意気投合し、少年のように楽しそうに語り合うことができた。延原さんは、彼のコレクションを「まるで宝ものの箱のようだ」と称し、この貴重なコレクションが、散逸することなく博物館に所蔵されるよう努力することを約束してくれた。 この時の話の中で、「駿河湾の貝類図録」の構想が、すでに彼の頭の中では80%完成していること、本ができたら本と併せて貝の標本の全てを静岡県の自然史博物館に寄贈したいと彼が考えていることを、私は初めて知った。耳学問で恐縮だが、駿河湾の貝類についての総括的な論文は、1943年に大山桂氏が発行した「駿河湾の軟体動物目録」と、その後東海大学から出版された「駿河湾の貝類図録」の他には出版されていないと聞いている。 彼が駿河湾をフィールドに採集を始めたのは1970年頃からだから、彼の本が完成すれば、それは20世紀後半の「駿河湾」を記録する意義深い記録になったはずだ、そう考えると今さらながら無念の思いがわき起こってくる。 初めて子どもたちと遠州の海で美しいカズラ貝を採集してから30年、その間採りためられた標本の数は2,300種にものぼる。彼の書斎の周囲を取り巻くように積見上げられたそれらの標本は、20世紀の駿河湾を知っている貴重な海の証人でもあるはずだ。 海を愛し、貝の美しさをこよなく愛した彼から、「漁をする漁師がめっきり少なくなって、貝の採集場所がどんどん減っている、こんな風に採集できるのも時間の問題かもしれないよ」、そんな言葉をよく聞くようになった。彼にはそんな実感があったのかもしれない。 生涯をビジネスマンとして多忙な仕事の中にいた彼が、プライベートな時間の全てを注ぎ込んで創り上げた「貝」の世界。それは、彼にとって安らぎの時間であったばかりでなく、駿河湾の半世紀の歴史を俯瞰する貴重な定点観測の記録でもあった、私にはそう思えてならない。静岡県に立派な自然史博物館を創り、そこに彼の残した膨大な資料を「寺田コレクション」として寄贈する。それが、私に残された大きな宿題、そんな気がしている。 |